学生の頃、二十歳になるちょっと前の頃からかな。
私にとってのメインストリートは広小路でも仲小路でも山王大通りでもなく、
手形の学園通りだった。
いつもいつも手形のストリートで飲んでいた。
なにしろほぼ毎日、週6くらいで手形で飲んでいたのだ。
飲んで遊んで学んで泣いて笑って、すべて手形が舞台だった。
その頃のことをたまに思い出す。
「酒保」にはなぜかあまり行かなかった。
「村さ来」や「やまざき」、「SHOUT」や「七番街」などなど・・。
当時、手形のストリートにはそれなりに若者があふれていたのだ。
そこで、幾多の出会いに巡り会ったことか。
その頃の相棒は「コロボックル」というcode nameの気の利いたヤツだった。
略して「コロボ」と呼んでいたが、いつの頃からか付き合いも途絶えてしまう。
あいつ今頃、どこでどうしているだろうか。
飲んだ後には、例によって必ずラーメンを食して〆るのだ。
この悪癖だけは今もちっとも変わってない。
当時必ず行っていたラーメン屋はなんと「屋台」の名もなきラーメン屋だった。
今は当時の面影も跡形もなく、
「ニューヨーク×ニューヨーク」というパチンコ店になっているが、
昔そこは「アイランド」という地元密着型の中型のスーパーがあって、
そこの正面入口の駐車場の部分に、
「塩ラーメン」が絶品のその名もなきラーメン屋台はあったのだ。
気さくなご夫婦が営んでおられるとても人気のあるラーメン屋台だった。
店のマスコットガール的なりっちゃん(娘)もたまに来て手伝っていた。
看護婦のヒトミとかどうしてるかなあ。
太田町に嫁になっていったと風の便りで聞いたのももう10年も前のこと。
みんなにオオゴショと呼ばれていた駅前のサラ金で働いてた女の子は、
フォーラスのおしゃれな服屋さんへトラバーユしたという。
これも10年も前の噂。
ユイノウキャンセラーとかパンチドランカー、夏色ナンシー、ゴリラーマン、アヴァンザード、ホウニョウファッカーとかいうひどいあだ名で呼ばれてた人たちも。
ここに本名は必要ないのだ。
集まる人みんなでアイランドの入口のコンクリートをステージにして、
よくKATZEを歌ったものだ。
そして盛り上がれば再び七番街へ。
ヨッチもカナちゃんもゲハも、みんな夜空を見ながら朝までそこで飲んだ。
たった一軒の屋台だったのだけれども、週末には行列ができるくらい。
そこには確かに、小さな文化ができていたのだ。
この屋台が手形にあった2年間。
楽しかったなあ。
今でもあの頃の夜を夢に見ます。
私は確実に齢をとりました。
しかし世の中は無常にできているもので、
パチンコ好きな店主夫婦は稼ぎのほとんどをパチンコ屋に注ぎ込み、
街金に手を出し、挙げ句破産し、
屋台を続けることができなくなるところまで追い込まれてしまった。
その際、追い込みをかけたアコギな街金は私の幼馴染みの男だった。
見ているしかない私にとっては、とてもつらい出来事だった。
そういえばあれ以来、パチンコを敬遠するようになったなあ。
パチンコは社会的弱者、あるいは嫌な言い方をすれば「底辺」から、
なけなしの金を巻き上げることでできあがっている産業だ。
なぜこういう産業が野放しになっていて、
たとえばカジノのような歴史と文化と伝統、
そして観光的キラーコンテンツであるものが禁止されているのか理解に苦しむ。
こんな国は世界に日本だけ。
正常な状態だとはとてもいえない。
まあそうは言っても、もちろんこの特異現象には戦後補償や官僚の思惑など、
様々な明確な陰の理由があるんですが、
話が逸れすぎになるのでここでは触れません。
この屋台が手形のストリートから姿を消した頃、
あの「時代屋」の暖簾が姿を現すのだ。
僕ら「手形屋台党」は当初、警戒の目で見続けていたが、
その「時代屋」はそれから今まで、
ずっと私たちの安住の拠点となり続けることになるのだ。
私の20代は「時代屋」とともにあった、と言ってもいいのかもしれない。
あの当時の屋台の仲間たち。
思えば、そのうちのほとんどが、
今も仕事なりNPOなりプライベートなりで相変わらず親交がある。
言ってみればこれが私の唯一の財産なんだけれども、
一方で、もう風の便りも聞かなくなった人も少なくない。
先にこの世からいなくなってしまった人もいる。
その人たちを思うとき、
年代はそれよりもかなり古いけど、
なぜかいつもバックで流れる歌がECHOESなのだ。
いつか俺たちはきっと 別々の道を選ぶ
道は違っても絆は消えない
誇りにしてたい あの時の輝きを
熱く燃えた Tug of Street
~By ECHOES
(明け方の手形)
手形屋台ラーメンの親父さんは現在、タクシーの運転手をしているという。
りっちゃんはまだ美容師やってるかな。
カアサンも元気でやってますように。
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