武市瑞山(半平太)の家に訪れた。
まさかいまだに当時の家が残っているとは思わなかったが、あったのだ。
それもそのはず、板垣退助などの上士や金持ちで城下に住む龍馬と違い、
武市半平太は郷士の長男として、農村で生まれ育った。
武市瑞山(半平太)旧宅
だから開発から免れ、今でもひっそりとその生家はひなびた里に佇む。
思えば、あれからたった150年しかたってないのだ。
武市瑞山(半平太)
武市瑞山は武市半平太ともいい、幕末の勤王思想の巨魁だ。
勤勉で真面目、秀才、剣も名人並み。
親戚筋にあたる龍馬とは幼なじみであり、多くの仲間が彼を慕う。
基本的には、人に対して優しいのだ。
彼の激烈なほどの親孝行のエピソードはたくさん残っている。
私はどうしても彼の考え方を好きになることができないが、
一個の人間としては十分過ぎるほどに魅力的であり、
本当は大量の思いやりを持ったいいヤツだったんだろうなあと思う。
尊皇攘夷の大嵐の中。
心の底から世の中を憂い、風雲に飛び込んでいった彼。
土佐勤王党を血盟によって組織し、藩論を一時的にとはいえ勤王藩に変え、
天皇中心の世の中に作りかえようとし、数々の業績を残した優れた政治家だ。
懐中には常に秋田が生んだ神道の巨匠、平田篤胤の書物が入っていたという。
土佐版の吉田松陰たるべく、期待をされた。
しかしそのやり方は、同志であった坂本龍馬や吉村寅太郎のように、
決して爽やかで朗らかなものではなかった。
暗殺をしまくったのだ。
当時、時勢を回天させるために、日本中に暗殺が横行した。
吉田東洋暗殺による藩内クーデターから始まり京都でも闇の暗殺団を組織し、
自分の意見を推進するのに邪魔になるターゲットを次々に襲った。
実行犯は主に、人斬り以蔵で有名な岡田以蔵など。
このことが後世の我々への印象と評価を著しく暗くさせてしまっている。
暗殺では事態はよくならないのだし、
暗殺という安易な手段に手を染めてしまった者は、
必ずその返り血を浴びることになる。
結果、彼は土佐藩の手で獄に繋がり、高知城下で切腹を命じられている。
その他の同志も壮絶な拷問の末に、ほぼ全滅させられた。
結局、血は血で洗われるのである。
しかしその最後の切腹の壮絶さが、彼を多少救っている。
腹を三文字に切る。
この凄まじい切腹を彼はやってみせた。
それが彼の男ぶりを回復しているのに多少役だっているだろう。
今は市内のど真ん中にある三文字切腹の地
獄に召し出される日。
彼はこの家で静かに朝餉を食していたという。
役人一行が門前に大勢控えている。
この縁側で妻の富子に一言、いう。
今生の別れとなるだろう一言。
彼はなんと言っただろう?
それはおそらくとても優しい優しい言葉であったに違いない。
処刑後、富子夫人は貧困に喘ぎながらも貞節を守り、
その後の長い長い辛い余生を武市半平太の墓を守ることに費やした。
武市瑞山(半平太)墓
彼が生きていれば土佐の明治は全く違ったものになっていたに違いない。
そういうことを考えつつ、彼の眠るこの墓の前で手を合わせてみた。
合掌。
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