秋田県は、自殺率がなんと12年連続全国ワースト1位という、
もう500年は誰にも抜かれないだろうというものすごい記録を持っていて、
さらにもっと驚くことは、それが現在も記録更新中だということだ。
「秋田=自殺のくに」
というイメージはもう日本人に染みついてしまっていてもうどうしようもない・・。
しかし、本当にそうなのか?
無論、残念ながらも本当にそうなのだ・・。
数字はしっかりと物語ってしまっている・・。
でも私のまわりでもそうだが実感として、
それほどのわりには自殺してる人少ないんだよなあ。
同年代で自殺した人の話などはほとんど聞かない。
年に一回も聞かない。
この自殺率の殿堂入りした県にしてはあまりにも少なくないか?
むしろ、同年代の東京人が自殺した話はよく聞く。
普通に暮らしている普通の人が
自殺をする割合というのは、
むしろ極端に少ないのでは?
とツッコミたくなるのだ。
だって本当に何年も全国ワースト1という自殺率の高さの割には、
周囲で自殺する方はほんと少ないんですよ・・。
ではなぜ自殺率が高いのか?
一つ思い当たる節があるのは以下のこと。
農村では、病に冒された老人は小屋で死ぬ。
私の実家も農村にあるのでよくわかる。
しかも私は幼少の頃、むかいにあった酒屋のアルバイトで、
家々をまわって酒を売り歩くというタフな仕事をずっとしていた。
全部で150戸くらいある農村をまわるのであるが、
年に何人ものご老人が、
母屋の隣にある農作業小屋で首を吊ったり、農薬を飲んだりして死ぬのである。
そこに買って頂いたビールなどを運ぶ私の恐怖といったら・・・。
並大抵のものではなかったのは言うまでもありません。
それだけに強烈に当時の気分を記憶しています。
それらの人々は、確かに人生に悲観して行き詰まってはいるんでしょうが、
なぜか自殺という行為にまとわりついてるあの特有の生々しい苦悶の肌触り、
そして独特の狂気がないか、もしくは薄いように感じるのだ。
むしろそれが特別な禁忌行為ではないというような周囲の空気を感じないでもない。それほど多くの方が人生の晩年、病に冒されたりして、死を悟ると、
まるで当たり前のように次々に自らの命を絶っているのだ。
猫が死期を悟って、家から去るように。
なんとなく秋田の、特に農村においては、
そういう現状があるように見えてしょうがない。
おそらく日本人は古来みなそうやって自ら死ぬことによって、
農村というコミュニティを守ってきたのではないか。
「穀つぶしの口減らし」というとても残酷な悲劇は、
原始社会では自然現象の部類に入ったことだろう。
多産の貧しい家庭が子供を売りに出すなんてことは世界的な現象だったし、
全国にある姥捨山がただの戯曲ではなく史実だったことなどもいうまでもないこと。
それがキリスト教に代表される自殺を否定する西洋の思想が入ってきてからは、
薄れ、ついに日本における自殺、自死の慣習はほとんど忘れ去られるように。
しかし、そういった思想はご多分に漏れずに中央から国内に入り、
その他の地方に伝播していくのであるが、
伝播の遅い日本の末端地域にまだ行き届いていないということなのだ。
青森、岩手、秋田など東北地方にだけ色濃く残ってしまっているあたり、
そしてワースト1争いにはいつもこれらの県が絡んでいるとことも考えると、
もうビンビンに怪しいのだ。
そうだとするとまず、自殺の良し悪しの前に、
「死期を悟った老人の自殺は、日本の古俗、伝統」
だということを考えなければならないのかもしれない。
しかし、だからといって現代の社会において、
いかに伝統古俗であったとしても、それがいいことだとはもちろん思えません。
もしも秋田の異常な自殺率の高さが、
このような背景によって成立しているものであるならば、
まずは、特に農村部の高齢者を集中的に、
なんとか自殺を、
「良くないことなのだ」
と思うような文化をもっともっとピンポイントで根付かせないといけないと思います。
それだけで数字はガラッと変わって来るのでは???
たとえ死期の近いご老人だといえ、
愛する人が自殺で亡くなるのはやりきれません。
まずは自分の家族から。
こればっかりは地域経済の活性化などでなく、
日常の会話がとてもとてもとても重要な気がします。
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