幕末慶応4年。
奥羽越列藩同盟を裏切って脱退し、
「一藩勤王」を唱えて戊辰の戦塵の中を秋田藩は戦った。
しかしそのおかげで、
お隣さんであり親戚筋のような各藩から鬼神のような侵攻をくらう羽目になった。
特に庄内藩、仙台藩、南部藩の追い込みは厳しく激しく、
ここを落とされればもう終わりという椿台(秋田空港周辺)まで攻め上げられた。
一藩勤王の結果、各地が焦土になったのだ。
この戦いの直接の契機となったのは、
使者として秋田の城下に留まっていた仙台藩士の大虐殺だ。
暴発した秋田の若者らが、
仙台藩から来た正式な使者団の寝込みを襲い有無を言わさず斬殺。
斬首してその首を五丁目橋の下に晒した。
それに激怒した仙台藩は秋田藩に対して宣戦し、
秋田藩は不本意ながらも同盟を脱退せざるを得なくなり、
仕方なく戦火の中に入っていった。
この仙台藩士斬殺事件は秋田史において大きな影響を与えた、
悲しい事件だったのだ。
しかし、悲話はそこで終わらなかった。
斬殺から2日後の7月6日。
巡礼姿の少年2人が秋田の久保田城下で捕らえられる。
この少年は斬殺された仙台藩士の子で、
父が秋田へ向かって出発した後に何か連絡することがあって、
わざわざ跡を追ってきたのだという。
2人にすれば父上を追う冒険のような小旅行であり、
秋田城下で父上に会えるのを心底楽しみにしていたに違いない。
しかし当時の秋田人はこの仙台少年を捕縛し尋問。
挙げ句に、この何も知らない何も罪のない子どもを非道にも殺したのである。
享年13歳と17歳。
首は花立町(高陽幸町)に捨てたという。
大正4年10月17日付の秋田魁新報に、
当時の目撃者(関係者?)の談が載っている。
「その父がすでにこの世の人ではないと聞いたときの二少年の悲哀はどんなであっただろう。子供心にも、いかに戦争の惨禍のかくまでもはなはだしきかを思い、合掌瞑目した。その、けなげさを思いやるだに、涙の種である」
なんでこんなにやりきれないんだろう。
こういうのは戦争のせいなのか?時代のせいなのか?
なんか違う気がする。
今日は早く帰って息子と一緒に風呂に入ろう。
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