私はいっちょまえにも自分の書斎を持っているんですが、
その書斎というのは隣接する実家の一室で、
小学校1年生から24歳まで使っていた部屋だということは前に書いた。
今その書斎を整理して、
なんとか仕事をするに耐えうるような環境にしようと難儀をしている。
なにが難儀なのかというと、
さすがに青春時代を過ごした部屋だけあって過去のいろんなものが出てくるのだ。
それといちいち立ち止まって対峙しながら作業することを余儀なくされている。
懐かしくて楽しいと思う部分がある反面、
作業は遅々として進行せず、心労もハンパじゃない。
こないだの週末は、
不意に段ボールの奥から出てきたマンガを思い出すことになってしまった。
それが「キラキラ!」と「さくらの唄」だ。
この作品は安達哲という漫画家が描いたマンガで、かなり強烈な作品だ。
どちらも「青春」を題材にして書いている(と思われる?)が、
それにしては深いのだ。
単なるキラキラした青春賛歌ではない。
当時、「キラキラ!」を始めて読んだのが高校一年生の頃。
その後、物語の展開と自分の青春の進行は見事にオーバーラップした。
新しい学校、彼女ができたり、仲間ができたり、新しい世界が拓け、
そして受験にぶつかったり、さまざまな壁にぶつかったりと、
実にいろいろなことがあったわけで、
身内の死など、現実の恐ろしさにも生まれて初めてさらされた。
この時期、生来楽天的に今まで信じてきたものがいくつか崩壊し、
無条件に明るいと信じていた自分の未来にむかって鳴らされている警鐘に対して、
身構えるようになった。
人生という「当たり前の連続」に対して、
不用心ではいけないと思うようになったのだ。
このことは今になって考えると、
結局のところ少なからず自分を成長させてくれたと思うんですが、
当時はけっこう内心イッパイイッパイでハラハラしていた。
その頃読んだせいか、
この「キラキラ!」は得体の知れない共感が今でも沸いてくるのだ。
この安達哲という作者は本当に不思議な人だ。
これだけ濃厚な哲学的テーマを、
巧妙な手法で心地よくかみくどき、
しかもマンガという軽い土俵で鮮やかに表現し、
多くの若者である読み手の精神世界になんとなく介入してくる。
天才のなせる所業だ。
そして安達哲の仕事(混乱?混沌?)が極まったのが次回作の「さくらの唄」。
これは大学に入学した春に読んだ。
基本的には「キラキラ!」と同じ主題のような気がするけれど、
もうちょっと大人ライズされていて、
作品としては究極の仕上がりになった。
天才の狂気が実に伝わってくる、
一コマさえ見逃してはいけない、
目を逸らしてはいけない、
そういう凄みがあるのだ。
全3巻中、最終巻の3巻はなんと「成人指定」となっている。
この二つを書き終えて、かの有名な「お天気お姉さん」を執筆。
しかしこれは多くの人が評するように、私から見てもまったく別種の駄作でした・・。
一説によると、途中で精神崩壊して自滅したという話も。
確かに「キラキラ!」の頃からそのきらいはあった。
しかしまた、その「あぶなっかしさ」「ヤバさ」「弱さ」にも自分を投影して、
ひかれたことは間違いない。
ゆえに彼は天才なのだ。
これらの作品を青春時代に読んだことのない30代が読んでも、
私と同じ感想はもたないだろう。
また、現代の10代が読んでも共感を得られるかどうかは難しいと思う。
「キラキラ!」の最後に、
「しかし そうして人生は 一つ一つ 決定されていく」
「可能性という甘く魅惑的で 無責任な言葉は 一つ一つ 消え去っていく」
という一連の神様の台詞がある。
この言葉に対して私はずっとFightingPoseをとってきたのだ。
とらなければいけないと、思ったのだ。
おかげでなんとか翻弄されずにこの歳までやってこれた。
もし安達哲に会うことができたら、お礼を言いたい。
なんてことを考えているうちに、あっという間に休日が終わってしまった。
いったいいつになったらすべて整理がつくのだろう・・。
とは言いつつ次は何が出てくるのか楽しみでもある。
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