30代前半で、尾張、美濃を手始めに畿内を次々に占領していった信長は、
ついに都に上洛した。
しかし京を抑えたとはいえ、この日本には明らかに自分より強い相手が二人いた。
武田信玄と上杉謙信だ。
相手が自分よりも強大な場合には、
決戦を引き延ばして5分かあるいはそれ以上、
いや最低でも5分に持っていくまでは引き延ばすことが戦いの常道だ。
そのためには、いかなる手段を使っても決戦を避けなければならない。
戦いの多くは始まる前に勝敗が決まっているものなのだ。
信長はこの時期この二人に対して、
見ている後世の我々の方が恥ずかしくなるような、
驚くべき卑屈的なおべっかを手当たり次第に使っている。
風林火山・武田信玄
そのうち、武田信玄という最大の脅威は幸運にも病に倒れ、この世から去った。
残りは謙信だ。
当時、上杉謙信は三百万石の経済力と日本最強の軍団を持っている。
さらに謙信自身、百戦百勝の戦上手で軍神とまでいわれている男。
加えて、まだまだ病没するような年ではない。
日本人の誰もが上杉謙信が本命だと思っていただろう。
しかし信長が天下布武というならば、
いずれその最強の軍神・上杉謙信とはぶつからなければならない。
毘沙門天の化身・上杉謙信
しかし、その時期は今ではないのだ。
京を抑えているとはいえ、信長には勝つための条件が全然揃っていない。
どう考えても勝ち目はないのだ。
しかしもう数年すれば、ある程度五分で戦える条件が揃うだろう。
だから今、上杉謙信に決戦を仕掛けられては困るのだ。
なんとしてでも外交で決戦を回避しなければならない。
こういう状況で信長は、謙信の自分への殺気を和らげるために、
「私は今たまたま京におりますが、あなたが京へ上ろうとなさるなら、
信長は京を出、瀬多のあたりまでお出迎えして御馬のくつわをとります」
とまで謙信に言っているのである。
あの大英雄のカッコイイ信長がである。
もちろん謙信はこんな下手な芝居に惑わされるような男ではない。
彼はなにしろ毘沙門天の生まれ変わりなのだ。
鼻で笑って使者をつき帰しただろう。
しかし、そのまた上をいくのが信長だった。
彼もまた人々に第六天魔王(サタン、悪魔)といわれた。
狩野永徳という高名な絵師に、
京の華やかな様子を金箔、極彩色をほどこした豪華壮麗な屏風絵にして、
贈ったのだ。
「私は地理的条件の有利さもあって、
あなたさまに先んじて京に入りましたが、
私は露払いのようなものです。
京はあなたさまのものです。
京は今この屏風絵のようになっております。
この都は、あなたさまを待っているのです!」
ここまで、屈辱的に雌伏した。
あの傲岸不遜で勝ち気で独善的な信長が、である。
鎌倉武士的な美学のカケラもない。
家臣はどう思っただろう。
しかもこの屏風絵はあの国宝「洛中洛外図屏風」なのだ。
贈り物としては、実に機微を心得たこの上ない代物だ。
ついに謙信は信長の真意を疑いつつも、
結果的には多少信じてしまった感がある。
それから数年後、謙信は上洛前に突然死してしまったが、
死せずして上洛しても信長軍の勝ちだっただろう。
すでに信長軍の準備は万端で、謙信は天機を逸したのだ。
目的のためにいかに手段を選ばずにできるか。
普通の人間には、しかも武士には特に自尊心やプライド、
しがらみや人情のせいでなかなかできないことなのだが、
比叡山や長島の例のほかにも、信長にはこのような芸当もできたのだ。
歴史的な英雄なだけにカッコイイところばかりしか見えてこない信長だが、
実はそここそが、信長の凄みなのだ。
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