荒木摂津守村重という人物を知ってるでしょうか。
実は昔からこの人物に興味があって一度深く知りたいと思ってましたが、
最近ある本を読んでいてその機会に恵まれました。
この人物は、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益と並ぶ
織田信長の6人の高級司令官のうちの1人であり信長の覇業に貢献した戦国武将です。 明智、羽柴、滝川と同様に土民からの成り上がりで、非常に武勇に長けた人物だったといいます。
それがあることが原因で信長に叛旗を。
明智光秀の本能寺よりも3年も前のことです。
毛利の援軍を期待して籠城戦を展開していたのだが、結果あえなく落城。
このとき、信長の出した条件が、
「城を明け渡せば城内の女子供の命は助ける。」
でした。
しかしなんと摂津守!
一人でこそっと逃げます。
まあ動機には諸説あるんですが、
しかし事実として天魔王信長は宣言通り、皆殺しにします。
砂浜に何十もの磔台を作り、女性を磔にし、白昼の砂浜、
無数の断末魔が連続する中、一人一人長い槍でもって刺し殺していきます。
また、四軒の農家を買い取り、そこに生きている女子供を五百人も詰め込んで生きたまま焼き殺します。
この日本史上における恐るべき惨劇は、
信長が行った三つの大虐殺のうちの一つですが
荒木村重の「一人で逃げる」という判断が引き起こしました。
殺された女子供の中にはもちろん、己の妻、側室、そして多くの子供たちがいたわけですが、さぞ彼を恨んで死んでいったことでしょう。
その後、本能寺、山崎、賤ヶ岳、小牧長久手などの幾多の戦いを経て
秀吉の世になるのですが、この武勇に長けた侍は通常では考えられない道を歩みます。
生き長らえたのです。
まともな武士なら切腹して詫びるところでしょう。
さては奥方同様、切支丹に入信し自害ができなかったか?
しかし、彼が洗礼を受けた記録はどこにもありません。
当時、洗礼とは誰でも受けれるものでありません。
それに値する人物だとオルガンチノ神父に認められなければなりません。
彼は切支丹ではありませんでした。
それなのに生き長らえました。
武士でない現代人でもここまでしてしまったら己の行為に悩乱して狂うか自殺するか。 普通であればそうなると思います。
しかし逃亡後、深い山中に隠れ、彼は生きます。
しかも供養という目的で出家して生きるのでもなく、
その後、秀吉のお伽衆という別段仕事もないような役割と捨て扶持を与えられ、
ただ単に、寿命が尽きるまで貪り生きるのです。
信長に追い込まれるまでの彼の潔い進退からは、とてもこういう厚顔で粘着質な行動は想像もつかない。
その精神の深い森はどのようなものだったろうか。
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