今回の北海道行では、わがままを言って例の友人に1日だけ案内をお願いした。
どうしても「増毛」に行きたかったのだ。
この地を、秋田人なら増毛(ゾウモウ)と読み違えないで欲しい。
増毛は増毛(マシケ)と読むのだ。
19世紀初頭。
鎖国中の徳川幕藩体制の日本に、
ガンガン開国を迫る外国勢力が後を絶たなかった。
アメリカの公使ペリーが浦賀に黒船で来たエピソードだけが、
突出して後世に伝えられているが、
ペリーよりも50年以上も前の時代、開国を迫る勢力としてはロシアが中心だった。
特に、長崎で期待をもたされて半年間も返事を待たされ、
その挙げ句に拒絶されて激怒し、
帰りしなに北海道の各地を襲撃したレザノフ事件のあとは、
幕府も北方の沿岸警備に神経質になった。
この事件、どう考えても幕府はありえないと思う・・
そのあおりで東北諸藩は分担して、
広大な北海道の沿岸をロシアの襲撃に備えるべく警備することになったのだ。
そして、秋田藩の担当していた地域の拠点がこの増毛なのだ。
つまりここは秋田の出張所のようなものだったのだ。
当時の増毛の再現ジオラマ
経費はもちろん自前であり、財政破綻寸前状態の東北諸藩。
どの藩も悲鳴をあげた。
しかし、最も悲鳴を上げたい気持ちだったのは、
実際にこの遠隔の極寒の地まで来て、
見えざる敵と戦わなければならない下級藩士だったに違いない。
秋田から約1ヶ月をかけて徒歩で増毛まで、
途中、雄冬岬などのものすごい難所を幾度もクリアし、
想像を絶する艱難辛苦の果てにここまでやってくるのだ。
辿り着くだけでも命がけなのだ。
秋田からの行程は約1ヶ月
海に突き出した霧のたちこめる断崖、雄冬岬
そうして任務地の増毛に辿り着いた彼ら秋田の侍を待っていたのは、
海から襲来するロシアの陸戦隊ではなく、
想像を絶するとてつもない寒気と冬場のミネラル不足からくる壊血病だった。
それこそバタバタと倒れ、死んでいったという。
その番屋の跡に立ち、
遠隔の地で死んでいった文化文政の秋田人たちの残滓に触れ、
その人たちをのことについてしばらく考えた。
増毛の海はなんか哀しい。
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