なんと立派な城なんだろうか。
福島県二本松市にある霞ヶ城と呼ばれるこの城塞。
大きな山を利用した見事な城なのだ。
以前からぜひ行ってみたいと思っていたこの霞ヶ城。
実際に行ってみると思った以上に見事だった。
もともと名門・畠山氏の築いた歴史のある古い城で、
伊達や蒲生、上杉までからんだ歴史を刻んできたが、
やはり一番の見せ場はこの城の最後、
戊辰戦争の徹底抗戦についてのことだろう。
幕末にこの巨城の主だったのは、丹羽長秀の子孫である丹羽氏だ。
この丹羽氏が幕末動乱の際に官軍に対してとったPoseは、
徹底抗戦。
隣の会津もそうだったが、東北諸藩は当初一致して徹底抗戦の道を選んだ。
しかし最後まで徹底的に戦ったといえるのは、
会津と庄内、そしてこの二本松だけだろう。
特に霞ヶ城は徹底的に戦ったのだ。
大手門前にある千人溜
この千人溜は閲兵城だった。
ここに集まった兵士はなにがしかの儀式をここですませ、それぞれ死地に赴いた。
子ども達も同じように・・。
白虎隊のことはよく知っていても、この二本松少年隊を知らない、という人は多い。
そんな人にはぜひこの紙芝居を見て欲しい。
私などが語るよりもはるかに雄弁だ。
男の子の親ならば涙なしでは見れないだろう。
→紙芝居・二本松少年隊
少年たちの眠る墓にて合掌
二度とこのような悲劇を繰り返してはいけない。
年端もいかない少年までが繰り出させる状況というのはもはや戦争とはいわない。
虐殺に近いことだと思う。
しかし日本人はこのことを教訓にできずに80年後にもう一度繰り返してしまった。
その時は日本中の若者が九州の南端からドンドン特攻した。
箕輪門と呼ばれる重厚な大手門
本丸を目指して進む
ようやく本丸到達
かなりの規模に舌を巻く。
これまで歩いたどの城よりも高いような気がする。
事実、本丸からみえる景色は壮観だ
西はアタタラ、東はアブクマ
この視界の果てから官軍はやってきた。
それを先導してきたのは東北列藩同盟を裏切った三春藩の人々。
彼らはなぜ徹底抗戦する道を選んだか。
本丸に登ればその答えが少しはみえるのだ。
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