この一年ばかりはずいぶんと三日月軒のことばかり追いかけてきた。
あれほど焦がれる食べ物という物は他にない。
これからも三日月軒の幻影を求める果てしのない旅は続くのであるが、
三日月軒を追いかけるにつれて思い出したことがある。
それは、
「チャイナタウンのメガネをかけた若主人」
のことだ。
私が親父に連れられて生まれて初めて行ったラーメン屋というのは、
幾多の証言と記憶から三日月軒にほぼ間違いない。
それから少し遅れた時代。
あれは中学校の頃だったか、私はよく親父に、
今も茨島にある「チャイナタウン」に連れて行かれたのだ。
立地こそ同じだけども当時は今のようなガッシリした建物ではなく、
掘っ立て小屋のような狭く窮屈な店舗だった。
クーラーなどはもちろんあるはずもなく、夏になると猛烈に暑い。
その中であのメガネの若主人は炎の中で汗だくで、
護摩行のごとく鉄の大鍋を振っていた。
試行錯誤の苦闘の末に「みそチャンポン」を独自開発。
この逸品は当時から爆発的な人気を得た。
何しろあの掘っ立て小屋の店舗には、
交差点のど真ん中で駐車場もないという悪条件にも関わらず、
常に店の外まで行列ができていたし、
もしも並ぶことなく入れるようなものならその幸運を喜んだものだ。
チャイナタウンのみそチャンポン
独特の辛味噌をたっぷり入れて食べるのです
イカ餃子もぷりぷりしてumai!
ジューシーな旨味がたっぷり!
チャンポンというものを生まれて初めて食べたのがここでした
だからチャンポンは秋田のものだと思ってました
今から10年以上前、
仁井田にあったサウナで偶然にも裸でお会いしたことがある。
私たちは何年も店で顔を合わせていながら、
「いらっしゃいませ」「ごちそうさまでした」「ありがとうございました」
しか会話をしたことがなかったが、
メガネの若主人は人のいい爽やかな笑顔で、
私のような青臭いガキに気さくに話しかけてきてくれた。
「いつもありがとうございます」
と。
私がそれに対して何と応答したのかは忘れてしまったが、
とても嬉しかったのを覚えている。
しかし、メガネの若主人とはそれが最後になってしまった。
若くしてガンでこの世を去る。
まだ40代前半だったはず。
私はこのことを誰かから聞いて、冥福を祈りつつとても落ち込んだ。
思い出が一つ消え、そしてあの「みそチャンポン」とも永久にお別れになるのかと。
事実、秋田という地方では、
マーケットが脆弱なせいか、あるいはそういう意識がもともとないのか、
こういう小さな名店はほとんどが一代限り。
主人の引退や死亡で店ごと味ごと幕を引く場合が多い。
最近でも、三日月軒や陶潜亭など枚挙に暇がない。
しかし、
「主は死すとも、味は死せず」
チャイナタウンでは後進の人々がその味をしっかりと受け継ぎ、守り、
今でも変わることなく提供してくれているのだ。
厨房の奥にはあのメガネの若主人の笑った写真がおいてある。
彼はチャイナタウンの「みそチャンポン」という抜群の逸品を開発して、
その命が尽きるまで私たちを喜ばせ続けるという大仕事だけでなく、
それをしっかり伝承してこの世を去った。
そこから彼の
「お客様である我々への、なみなみならない愛」
を感じないか。
メガネの若主人がこの世に遺していってくれたものはとてつもなく大きいものだ。
ありがとうございます。
メールはこちら → t.uppercut@gmail.com
あ~懐かしい。ほったて小屋時代に行きました。ヤマトの駐車場に車をおいて。
店のご主人が亡くなったという話は聞いた事がありませんでした。今知りました。ご冥福をお祈りいたします。
お客様を愛する。
大事な事ですね。肝に銘じます。
コメントありがとうございます。
私はブラックヤマキ派でした。
当時はまだブラックではありませんでしたが(笑)
炒飯もおいしかったですよね。
また食べたいな~。
08年01月28日付 本日のメモ
ブログ界にあふれるラーメンブログとラーメン記事の中から気になったり面白かったものをピックアップしてお届けする本日のメモ。土日の間にいろいろ整理したいところがあったんですけどもねー。ということで、1月25日と26日付けの分をお届けするブログ拝見と、ラー
先日実に8年ぶりにチャイナを食しました。
以前と変わらぬ、・・というかグレードアップしたかの
ような味に感動でした。全国展開できるのでは?
チャイナーさん、コメントありがとうございます。
コメントみて私も久しぶりに行ってみたくなりました!
さっそく昼にでも行ってみようかな。