尊敬する女社長がいます。
創業の何も出来ない威勢だけの頃からなぜか何かと目をかけてくれ、
今だにお仕事を頂いたり様々な形でお付き合いさせていただいている。
しかもこの方、秋田県内の方ではないのである。
とある県の中心都市に本拠を置き、札幌、仙台、東京に拠点を持つ企業を経営されている。
まずLooksがいい。
年の頃はもう還暦に近いというのに凛とした気品があり、
声の張りが良く、表情は常に明るく、若い。
道理と信義で物事を考え、決して道を外れることはない。
すがすがしささえ感じることもある。
事業家なので、当然経営には浮沈がある。
正直、現在はかなり停滞しており、
そんな中、実は弊社にも多額の債務を抱えている。
この売掛を回収できないと弊社もそうとう辛いボディーブローを食らうことになる。
しかし、この苦境にあっても我々の信頼はまったく揺るぎないのである。
前にも書いたが、不逞の輩が臆面もなく横行する昨今、
これは奇跡といっていいことだろうと思います。
信頼を決して裏切らないという人間性。
そしてその命をうけたスタッフはしっかりと確実に実行してくれる。
こういうリーダー、しかも女性はみたことがない。
本当にすごい方だと思って、失礼ながらご出自について詳しい方に聞いてみた。
代々、教育者の家に生まれたらしい。
ご両親に厳格に育てられたためにこのような人格になったと本人もおっしゃる。
しかしそれも関連してるが、私は別の理由だと直感した。
田名部のご出身だったのだ。
田名部といえば青森県下北半島、今のむつ市あたる。
戊辰戦争後、敗戦にまみれた会津藩士が事実上の流罪として流されてきた土地。
いわゆる斗南藩。
この米の獲れない不毛の冷涼地にいきなり放り込まれた彼らは飢えに飢えた。
「会津のゲダカ(毛虫)」、「鳩ザムライ」などと呼ばれた。
もちろん毛虫や鳩の食うようなものばかり食べているからだ。
しかし彼らが圧巻なのは、その状況の中で真っ先に取り組んだことは、
日新館という学校を作ることだった。
「米」よりも「人」なのである。
会津人とはそういう人々だった。
いや日本の武士とはそういう人々だった。
その女社長はそういう歴史の潮流の先鋒にいるのだ。
なるほど。
慶応4年、会津の鶴ヶ城で官軍に包囲される中、
何千人もの会津藩士が城内外で戦った。
白虎隊などの少年兵だけではなく、女性も戦った。
600名もの婦女子が城内にいたといわれる。
1ヶ月もの籠城戦。
この女社長のような女傑が薙刀を持ち、城内にひしめいていたのだろう。
薙刀の名手・中野竹子像
こりゃあ板垣退助が手こずるはずですよ。