御休町に引っ越してきてもう3ヶ月が経ちます。
このとてもリラックスした地名はその昔、
殿様の休憩所があったということに由来している。
昔話にでてくるお殿様はいつだって威張っていて、
尊貴で偉大な存在だったけれども、
藩主というのは実はそんなに威張ったものではなく、
現在でいうところの地方の下請け中小企業の社長みたいな存在だったのでは?
地方の下請け企業に戦略も何もない。
唯一の社長の仕事といえば、霞ヶ関の徳川官僚(旗本衆)の機嫌をとることのみ。
これに失敗するとどんな口実をつけて潰されるかわかったものでない。
事業そのものではなく、機嫌取りに社の運命がかかっているのだ。
だから莫大な経費をかけて隔年で参勤交代をして東京営業所に住み、
様々な談合を巡らし、経費も湯水の如く使い(不本意ながら)、
資金がなくなったら鴻池などの都市部のファッキン金貸し商人から金を借りる。
一応、返済計画書は作るが、もちろん返すあてなどまるでない。
明治4年の廃藩置県の際、
意外なことにほとんどの藩主はこの革命を象徴する新政策に反対しなかった。
しかしこうした実情を考えればそれも当然のことで、
借金はきれいさっぱりなくなる上に経営からも解放される。
そのうえ、自らの資産はそのまま保有でき、
身分的にも華族に列せられ保証される。
こんなバラ色の待遇はなかっただろう。
どの藩主も大喜びでさっさと会社と社員を捨てた。
そういった実情の中で特に「佐竹」といったら、
新羅三郎義光を創業者にする日本最古のエリート老舗企業でありながら、
新興の東京本社の徳川に押されてしまって、
創業以来の本拠地を離れて、なんら由縁のない秋田に移転せざるを得ないところまで追い詰められてしまっているのである。
そんな疲れたおっさんが、
久保田城を出て接待ゴルフ(鷹狩り)をしに御野場まで足を運ぶ。
その帰りに休んだところがこの御休町だ。
この場所で腰を下ろした封建君主、藩主、殿、佐竹源朝臣某公。
社長さん、あんたも大変だったんだろうなあ。
なんかわかる気がするよ。
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