個人的にですが、土佐の山内家ほど嫌いな家はない。
「巧名が辻」などを読んでると山内伊右衛門一豊(山内家創業者)など、
すごくいい人たちにも思えるんですが、
ある一点の愚行で後世の我々をすべて敵対させる。
それは土佐入部の際に、やった卑劣な行為。
新領主として赴任してきた一豊は、
旧領主の家臣達(長曽我部侍・一領具足)の強力な抵抗に遭う。
どの国でもこのようなことは多少に関わらずあるが、
なにしろ相手は天下の強兵といわれた土佐人、長曽我部侍。
気が荒く、頑固で、強い。
新領主の山内家は手を焼いた。
その挙げ句、山内一豊は恐るべき卑劣な悪謀を実行することになる。
土佐ナンバーワンを決める相撲大会を催すというウソの布令を出し、
土佐中の力士(戦闘力の高い戦士)を種崎浜に集め、
選手達が準備運動をしている間に伏兵の鉄砲足軽が包囲して、
70余人を鉄砲で皆殺しにしてしまったのだ。
平和な江戸期、こういう残忍で卑劣な一方的虐殺はほとんど例がないのだ。
これだけ見ると悪魔としかいいようがない。
良妻で知られる千代はこれを聞いて卒倒したというが、
これに似たことを、土佐の上士階級(山内侍)は幕末まで行った。
秋田においても佐竹入部の際、数々の一揆が起こったが、
佐竹家であってもこのような卑劣な手段は使わなかった。
こういう「人間に対する愛の欠落」が私をしてとても嫌いにさせるのである。
まあ私に嫌われたところで山内家にとっては別に痛くも痒くもないだろうが、
逆にいえば、私のような後世の東国のヘンな平民にさえ嫌われているのである。
侍の鑑のような家ではないと思ってしまう。
この種崎浜での大惨事から、
山内侍(新領主団・上士)と長曽我部侍(旧領主団・郷士)の、
燃え上がるような怨恨、確執は決定的なものとなってしまう。
政治という視点でみても、愚かとしかいいようがない。
彼らはその時から、さながら進駐軍と被占領民のような不幸な敵対関係を、
江戸期250年間を通して続けざるを得なくなったのだ。
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