夜に早く寝たので朝に早く起きてしまうのは必定。
ということで、朝飯前に散歩。
軽快に街を歩く。
なにしろこの街の中心地は昨夜、かなり歩き尽くしたのだ。
かといって別にいい思い出はないが・・。
朝の七尾市
夜とは違ってかなりいい表情です
海にほど近いこの小川も爽やか
私の先祖のルーツは能登、七尾ではないということが釈然としてしまったが、
私の一族が秋田に来てから450年間、ずっと属している浄土真宗の寺のルーツが、ここ七尾にある光徳寺という浄土真宗の名門なのだ。
間接的にでも先祖の行跡に少しでも触れることができれば本望だ。
15世紀後半。
当時は加賀国木越(現在・金沢市木越)にあったこの寺の三男坊に、
浄信という僧がいた。
彼はその生涯のほとんどを北陸総本山である吉崎御坊にて蓮如上人に仕え、
晩年、その功績によって形見を授かり、
加賀国河北郡横田郷に堂宇を建立し、開基。
近隣住民への布教を始める。
その次の了願の代になって「なんらかの理由」により海へ、そして秋田へ。
そして現在の住職まで17代、連綿と蓮如の教えを、
秋田の私の実家のある地で伝え続けている。
我が一族のルーツの某は、この了願と加賀国での知己であったらしい。
その縁で、お互い秋田に流れ着いたあと自宅の近隣に呼び寄せ、保護し、
この寺を再興させたのだという。
そういうことから考えると、
私の先祖の某は河北郡横田郷の住民だったのかもしれないし、
金沢木越あたりの住民だったのかもしれない。
家伝では先祖は「富樫家の重臣だった」とあるが(これには私なりの疑問もあるが)、くしくも今、私が訪れているこの光徳寺の住職の姓は「富樫」なのである。
いずれこの現在の地名にはない加賀横田郷という場所を探し出し、
その点を明らかにしたいと思っているが今回は無理だ。
だって俺は今は七尾市にいるのだから・・。
この木越山光徳寺。
加賀における浄土真宗の名門でありながら、
織田信長からの徹底的な弾圧に屈する形で金沢木越山を退去。
一時は、半島のそうとう先端まで追いやられたようだが、
豊臣の世になり前田利家が加賀・能登に入部してから七尾へ。
現在の地へ堂々とした寺を構え、前田七尾の門前町の重鎮として栄える。
この寺の住職をたずね、中を特別に拝見させていただいた。
上の写真はすべてそのときのもの。
先日の松岡寺もそうだが、能登の浄土真宗寺は規模が大きく立派だ。
それだけ、門徒の信仰が篤いということだ。
なにしろ当時、ここに住む門徒は「南無阿弥陀仏」と唱えながら山野に充満し、
上杉軍や織田軍のような日本屈指の鬼軍団に必死に向かっていったのだ。
こういうことを考えても浄土真宗は日本古来の宗教よりもむしろ、
キリスト教やイスラム教などの西洋世界宗教に近いものがあると思う。
日本における「市民」の成立に潜在的な影響をかなり与えた宗教であると思うが、
それは親鸞上人というよりも、蓮如上人の功績だろう。
私が秋田の門徒だと述べると、この光徳寺の方も快く迎え入れてくれ、
懇切丁寧に説明してくれた。
さらに七百年史という貴重な書物をくれた。
この光徳寺から出た浄信和上。
彼が開基した寺が数百年の星霜を経て今、何の因果か秋田の私の実家のすぐそばに、
大きな大きな公孫樹の大木とともにある。
私が死んだら葬式をあげるのはベルコではない。
この寺なのだ。
これはもしかしたら誇れることなのかもしれない、と思った。
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