Tiger Uppercut!~ある秋田人の咆哮
サブタイトル タイガー!タイガーアッパカーッ!秋田の歴史、文化、グルメ、時事、そしてステキな未来の書き下ろし!
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菊地山三郎に花束を!

2007 年 3 月 2 日 by TU

坂本龍馬や高杉晋作、白虎隊や二本松少年隊は知っていても、

「菊地山三郎」

という少年兵を知っている人は誰もいない。
幕末。
戊辰戦争という革命戦争の際、我々の秋田の地は焦土と化した。
前にこのblogでも書いたが、
特に庄内軍の戦意は凄まじく、
連戦連勝で雄物川沿いに破竹の勢いでやってきた。

歴史に残る庄内二・四番大隊による9月8日雄物川電撃渡河作戦。

渡河点は雄物川が大きく蛇行した福部羅東岸。
雄物川を渡りきってしまえば久保田城まで要害はまったくない。
戦略上、庄内軍の優位は決定的なものになる。

9月8日、今の暦でいうと10月11日だろう。
そのころのあの辺りを想像して欲しい。
朝晩の気温は低く夜には毎日のように濃霧が発生するという光景だ。
この日は夕方より雨、夜は雷鳴轟き、霰が降るという天候だったという。
渡河作戦は早朝から始まった。

午後二時。
結果的にこの鬼玄蕃といわれた酒井玄蕃率いる最強二番大隊の精鋭はこの一大渡河作戦を成功させる。
秋田兵は福部羅の戦線を守るべく戦ったがあえなく潰乱。
夕方までに淀川まで退却。

この朝からの福部羅渡河攻防戦による秋田兵の死者は隊長の梅津千代吉以下、43人。
なにしろ新式元込7連発銃で武装し、
フランス式の洋式調練に習熟した庄内兵約1000に対し、
秋田兵は先祖伝来の具足に日本刀である。
銃はもちろん火縄銃。
秋田兵が一発の弾丸を敵に打ち込む間に庄内兵はゆっくり七発以上撃てる。

当時、秋田兵は弱いと言われた。
味方の長州人で官軍参謀桂太郎(のちの陸軍大臣、日露戦争時の総理大臣)には鈍兵惰卒などと罵倒されている。
しかし、これでどうやって戦えというのか。
戦士が弱いのではない。
藩の上層部、役人の頭が弱いのだ。

総退却した福部羅の川端に、逃げ遅れたのか、あえて残ったのか、
3人の秋田軍敗残兵が庄内軍の分隊指令野沢権内の残党狩りに発見された。
見つかった秋田兵3人のうち2人は一目散に川に飛び込み逃げた。
しかし、一人は逃げずに堂々と野沢権内に対峙して向かってきたという。
顔を見ると紅顔の幼い少年で、武装はなんと銃でも刀でもなく、堂々とした十文字槍だったという。

この17歳の秋田で生まれ秋田で育った少年は野沢権内との一対一の格闘の末、負ける。
戦いの最中、可哀想にも尻もちをついてしまったという。
この時代、負けるということはすなわち、「首を刃物で切り落とされる」ということだ。
紅顔少年は野沢権内によりその場で首を胴体から切断される。
権内曰く、突進する直前、

「秋田藩戦士、菊地山三郎なり!」

と堂々と名乗ったという。

彼の死から10日後、庄内藩全軍総退却。
このひどくサムライらしい少年に、
勤王や佐幕、菊か葵かなどの思想などあったかどうか。
たった一人で、何のために戦い、何を守るために逃げなかったのか。
両眼に最後に写ったのは、福部羅から見える高尾だったに違いない。
南東から見る10月の高尾山は特に素晴らしい。

野沢権内はこの秋田人の少年の立派さに感心し、
下淀川の地蔵堂に埋葬し、中淀川の寺に回向を託したという。

あれから137回目の彼岸。
すでに彼に線香をあげてくれる人もいないだろう。
よし、山三郎。
今年の彼岸は俺が線香をあげにいってやる。

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プロフィール
     投稿者: TU
     紹介: 秋田市在住秋田人。会社を創業、 そして経営。現在30代前半。 人生の真夏。 好きなもの=「秋田」
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