今回、鶴岡に訪問した目的はただ一つ。
「庄内と和解するため」
である。
140年前、戊辰戦争という大戦で庄内人は秋田人と戦い尽くした。
もともと、庄内藩は徳川四天王の酒井忠次から始まる。
徳川草創記の超大物だ。
酒井忠勝の代になり将軍直々の命令で庄内に派遣された(その前は信州松代)。
この庄内行きを元々は三河武士の酒井忠勝は相当嫌がったらしい。
それでも強行した配置換えの目的は
「佐竹秋田を封じるために」
の一点である。
それ以降、250年酒井庄内藩士はその目的のためだけに
純粋培養されたかのように江戸を生きてきた。
幕末、鳥羽伏見で戊辰戦争勃発。
もちろん、徳川譜代の庄内藩は官軍に対して宣戦。
激戦の続く会津・白河方面へと向けて出兵。
この鶴ヶ岡城から致道館で士の道を学んだ多くの若者たちが出陣した。
そして最上川を遡上して新庄から、尾花沢、天童、山形を経て上山まで来た時、
佐竹秋田藩が奥羽越列藩同盟を電撃脱退!
この一報に接した庄内軍の反応はDNAのせいだとしか思えない。
なんと上山で全軍、鬼の180度ターンをかまし、
一目散に佐竹秋田の居城を目指して全軍進撃を開始する。
それから2ヶ月間、新庄、院内、湯沢、横手、花館、角間川、福部羅、三崎、矢島、本荘、亀田など、あらゆる戦線で勝利し、
なんと撤退に至るまで全線全勝。
最終的な戦線は、秋田市下浜北部、雄和椿台まで来ていた。
もう3日もあれば久保田城は陥ちていたかもしれない。
いや2日という人もいる。
今でも雄物川沿いの工事などで地面を掘ると庄内兵の白骨が出土する。
雄和町の7割の民家は庄内藩の戦略的放火に遭った。
タカシの家も焼かれた。
ミサキの家も。
今も庄内藩のスナイドル銃の弾痕がついた石碑がある。
両軍、そして民百姓も塗炭の苦しみを負った。
秋田側で400人、庄内側で300人の死者が出た。
京都で前の大戦というと応仁の乱らしいが、
秋田や庄内で前の大戦というと「東北戊辰戦争」のことなのである。
なぜ、この一見益のない戦争に、
会津も米澤も仙台も降伏して全体的には勝ち目がないのに、
仮に秋田を落としたとしても戦略的にたいした価値もないだろうに、
なぜ、そんなに大きな代償を払ってまで攻め入り、攻め続けたのか。
ずーーっと不思議で仕方がなかった。
DNAだ。
「庄内藩は秋田藩という雄藩を抑えるために存在せよ」
という主命で成立した。
そして最後まで成立し続けた。
そういうことなんだろう。
なので、これから庄内を理解し、庄内を好きになり、
あわよくば、庄内と手を組もうと考えている私からすればまず、
庄内の英霊と和解しなければならない。
鶴岡駅に降りてまっしぐらに鶴ヶ岡城に向かった。
深く敬礼、合掌。
ポケットに手を突っ込んで勢いよく賽銭を投げ込んだら、
コインロッカーの鍵まで放り込んでしまったのは、
そう簡単に和解はしないぜこの秋田野郎ということなのだろう。
実際、賽銭箱から鍵を取り出すのにすごく困った。
その方法についてはここでは言えない。
しかし秋田に帰って昨日、アポなしの急な来客があった。
初めてお会いするある大きな会社の常務なのだが、
驚くことに自身が専務を勤める鶴岡の会社と提携して欲しいとのこと。
人生は相変わらずドラマチックだ。
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