沖縄を巡ってみて、
結局、初日に聞いたタクシー運転手の言葉の意味が最後まで重く響いた。
「自然と歴史と、そして現状をみていってください」
正直な住民の本音だろう。
そして今回の沖縄滞在で、
そこにはささやかなアイロニーが込められていることもわかった。
南国も知らない、戦争も知らない、基地も知らない、
という私のような世代の秋田人にはとてもわかりにくいことだったが。
同行者の一人で沖縄通の方が海軍壕から出てきた時、
「善し悪しの前にこれが現実だね」
と言っていたが、その言葉通りの沖縄の生々しさに圧倒され続けた。
胸に迫る現実の前にしばしば言葉と思考を失った。
真夜中、県庁前からおもろまちまでの間を1時間かけて歩いてみた。
そこには華やかで豊かなリゾート都市の一面はなく、
はるかな歴史の上流から連綿と続いている住民の生活臭とため息があり、粗末な造りのスーパーで買い物をしている人々の顔はみんな一様に疲労していた。
絶対的無条件楽園沖縄。
ではない。
いろんな条件や前提、都合のもとに複雑に沖縄は出来上がっている。
だから全く違ったいろんな顔がある。
おそらく善意で創られ、しかし押しつけられたイメージ。
それに戸惑う純朴なウチナーンチュ。
私は何だか申し訳ない気持ちになってしまった。
沖縄人は元来、楽曲の得意な陽気で温和な人々だろう。
今も昔も本土的な農耕民族ではない。
本来、アリではなくキリギリスなのだ。
キリギリスはアリのようなたくましい生産力に劣る。
かわりに音楽などの非生産的能力に長ける。
そしてこの地に冬はこない。
こういう背景から多くの芸才あるキリギリスを世に出してきたし、
一方で、マーケットの自分勝手が創りだした最近のジャリタレ(オレンジレンジとまではいいませんが!)のような軽薄で短小な輩が雨後筍のように乱立し、
そのあまりの行き過ぎが我々を失望させ、倦怠させたりもしている。
満ちた潮はやがて干くだろう。
しかし私は、やがて来る時代の芸能は、津軽だと思っている。
津軽なら上記の条件を新たな切り口ですべて満たしさらに欠点を補う土壌があるからだ。
そういう地域はもう津軽以外、日本にはない。
津軽出身のRapperやIdolが遠くない将来、続々と出現し私たち東北人の誇りを昇華させるだろう。
もうすでに津軽の足音は微かに聞こえはじめている。
さらに、それらをすべて含む日本において、
「秋田」の時代がやってくるのは寸土も疑いがないことだと知った。
しかしその理由については今ここでは言わないでおく。
時代はまだまだ我々を熱烈に必要としている。
頑張ろう愛すべき秋田人たち。
そんなことを思いつつ沖縄について考えることをひとまずやめる。
ありがとう沖縄。
またいくよ沖縄。