Tiger Uppercut!~ある秋田人の咆哮
サブタイトル タイガー!タイガーアッパカーッ!秋田の歴史、文化、グルメ、時事、そしてステキな未来の書き下ろし!
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2007 年 4 月 のアーカイブ

象潟は、うらむがごとし

2007 年 4 月 26 日 木曜日

「おもかげ松島に通ひて、また異なり。  
   松島は笑ふが如く、象潟は憾むが如し。
      寂しさに悲しみを加へて、地勢、魂を悩ますに似たり。」

これは元禄年間に訪れた芭蕉の象潟評。
なんと詩情をかりたてるロマンあふれる評だろうか。

象潟がその昔、今のようなさえない状態ではなく、
幾多の島々が散らばる風光明媚な観光名所であったことはみんな知っている。
突然の大地震によって隆起し、
島々が陸に揚がってしまったのが現状の姿だ。
その地震が起こったのが実は今からたった200年前だったということは、
coreな秋田人にとっても意外の部類に入るだろう。

昨夏、由利に住むある友人のおかげでいい体験ができた。
象潟・蚶満寺の奥の奥までガイドしてもらったのだ。
当世住職・熊谷能忍和尚は司馬遼太郎氏の戦友であり、
同じ戦車隊で大東亜戦争を戦った間柄である。
その奥様から様々な話を聞くことができ、
「街道にゆく~秋田県散歩」の際のこぼれ話などもじかに聞くことができ、
読者としては冥利に尽きた。

芭蕉も西行も一茶も象潟が生涯の北限。
伊能忠敬は隆起直前の象潟を測量し、
吉田松陰は象潟に一泊してさらに外ヶ浜まで北上。
いろんな人がこの地に来た。
当時、もっこり隆起したてホヤホヤの象潟をみてどう感じたことだろう。

隆起当時、隆起しただけなので当然、九十九島は残っている。
水際はもうはるかにひいてしまっていて、
九十九森などと呼ばれたりしているが、
平安期から歌の名所になっているほどの風光の残滓だけは、
なんとか残していたらしい。
しかし、当時の本荘藩はこのわずかな土地でさえも田にしようとした。
何ということか。
ふと、O何とか村の干拓を思い出してしまった。

この愚かな新田開発方針に、
単身で異を唱えた蚶満寺の二十四世住職・覚林和尚が、
本荘六郷藩に罠を仕掛けられ、捕縛。
そのまま牢で糞尿にまみれて獄死させられている。
おそらく覚林和尚はこう主張したはずだ。

「後世に遺せ」

わずか四十町歩の痩田と引き替えに、
九十九あった島は六十あまりになってしまった・・。

東北西海岸には十三湖、八郎湖が如く地形的に潟ができやすい。
これがまた趣があっていい。
しかし秋田は松島と並ぶ世界的観光リソースを、
地震と時の政府(六郷藩)によって失ってしまった。
芭蕉が句を詠んでから350年。
まさにうらむがごとし鳥海大地震。

もう一つの世界的観光リソースの八郎湖はつい最近(昭和38年)、
我々の祖父母世代が自ら干しましたが・・。
このとき、覚林和尚の如き人物はいなかったか。
まさにうらむがごとし干した秋田人・・。

※当時、ラムサール条約ってなかったんでしょうか・・。

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プロフィール
     投稿者: TU
     紹介: 秋田市在住秋田人。会社を創業、 そして経営。現在30代前半。 人生の真夏。 好きなもの=「秋田」
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