私の常用している茶碗はなんと一万円もする。
この茶碗を使うようになるまで100円ショップの茶碗を使っていたので、
価格にして実に100倍ほどもグレードアップした。
本物の陶磁器で、しかも野の苺をmotifにした珍しい意匠であり、
色といい形といい芸術品としても100倍くらいの価値は多分あるんだろう。
でも、もちろん私はそんな芸術や美術などにあまり頓着ないし余裕もない。
茶碗など穴さえあいてなければいいと思っていた。
しかし、迷うことなく買ってしまった。
伊万里なのである。
肥前磁器は17世紀初頭から始まった。
当時は100年以上続いている戦国時代の末期で国中が疲弊していた頃。
そういう時代にあって、
ただの土から価値の高い商品を造る陶工はまるで錬金術師であったに違いない。
優れた陶磁器は当時、本格的に流通し始めていた大量の貨幣と交換できた。
陶器を製造する高い技術は朝鮮半島にある。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に現地軍として前線に渡った大名は得たりとばかりに
多くの韓人陶工を日本へと連れ帰った。
「連れ帰った」とはいうが、説得してお越し頂いたのではなく、
もちろん強制連行、拉致してきたのである。
その数たるや半端でない。
村ごとすべて連行なんてのはザラだ。
出兵した戦国大名にしてみれば、
一銭の行賞もない無名の師のために、
朝鮮くんだりまで自腹で出かけたのだから、
磁器職人でも拉致ってこなければ間に合わないという計算があっただろう。
肥前国主・鍋島直茂も当然の如く、多くの朝鮮人を連れ帰った。
そしてそれらを、逃散や技術流出を防ぐために山深い小さな里に隔離して、
何代にもわたり、連綿と、ただ、ただ、土から貨幣を造らせた。
それが伊万里だ。
昨秋、肥前路を旅したとき、思いがけず伊万里に寄った。
そして、幾星霜を越え、彼らの土は私の食卓に上がることになった。
切り立った峰々に囲まれた佐賀の山奥。
連れてこられた彼らの故郷忘じがたい心を想い、
私は何とも言えない気持ちになった。
もっと安い茶碗もあったのだが、
敢えて分不相応な一万円の茶碗を購めたのは、
申し訳ないという気持ちがなかったわけではない。
そういうことを思いながら左手でずしりと重みのある椀をつかみ、飯を食う。
今日も明日もだ。
※食欲は間違いなく減退しますが・・。
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