狂人の長い独り言ですので、できれば今回は読まないでください。
都市部で育ったバカ娘が何を思ったか、
気まぐれに田舎に憧れ、田舎びいきになって、いい気持ちになって、
とてーもまったりしている。
しかも都会の午後のcafeとかで。
こういう種類の電波女と最近あることでやりとりをさせて頂いたのだが、
空恐ろしいことにこういう人って最近激増していると思う。
社会現象だ。
そんなに自然派なのなら彼氏と樺太行って開拓してこいっつーんだよ!
O潟村のあたりで作ったものはすべて安全でうまいと思っている。
何故かというと、
そういう雰囲気だからとか、
景色がいいからとか、
平らだからだとか、
アメリカっぽいからとか、
ことごとく意味不明。
仙北や庄内の農民が聞いたら烈火の如く怒るだろう。
こういう人々は「本質をつかみたい」という本能が完全に欠けてしまっている。
O潟村の産直センターで「なぜ山菜フェアをやってるのか」
という疑問は夢にも持たない。
夢見る女なのに。
パッケージの裏面という現実などは絶対見ない。
O潟村の民は、農に従事する民でありながら、
それこそ一家離散を賭けて「事業」をしている尊敬すべき事業家だ。
私自身、尊敬している方が何人もいる。
いや、ほとんどと言っていいくらい尊敬している人ばかりだ。
そこに住む人がどうのということを言っているわけではない、念のため。
少年の頃、自然豊かな最高の環境で育った私。
腹が減ればあたりの畑には、
トマトや胡瓜、西瓜や苺などの今すぐ食べれるワンダフルなうまい野菜たち。
よくそれをもいで食べたものだが、
親に厳しく言われたことは「人の畑のものを食うな」 というギスギスしたことではなく、
「しーーっかりふいて食べなさい。できれば水で洗ってから食べなさい」
というひどく理に適ったことだった。
もぎたてのトマトについているあの白い粉は、
トマトから出ているものだと思っていたが実は有機合成化合物だった。
畑の人の話では、この白い粉をもってして、虫どもを殺虫し、
成果になる確率を飛躍的に向上せしめるのだという。
祖母や母に連れられて山菜やキノコとりなどで奥深い農村に入ると、
まるで室町の頃のような農村原風景に出会う。
野山の畑で汗を流す農夫、まるで無駄のない動き、
それは雪舟や等伯の幽玄な水墨画の世界。
「何をしているか」 と秋田弁で聞くと、
「最近は虫が多くて有機リン系を撒いている」 と言う。
さらに続けて、
「いくら撒いてもきりがない」
「これが終わったら窒素化合物(化学肥料)を撒くんだ」
と弾けるような笑顔で言う。
いいじゃないか。
生産者の立場からすれば、
せっかく作るのだからできるだけ少ない労力でたくさん作りたい。
これは稲作伝来の頃からの道理。
農業と農村の主題は「己が生き延びる」という一点に尽きる。
生かし、育て、殺し、食うことが農だ。
都会のバカ娘にウケるために農を営んでいるわけではない。
要は、秋田というと農村、田舎の、
「常にはとてもとてもごめんだけどもたまにはいいね的イメージ」
が何者かという化物によって作られ、
それだけが先行して、
そこに住み、生き、その中で格闘している人々は、
またしても置き去りにされているということだ。
司馬遼太郎氏が秋田を訪れた際、
秋田の農村風景を見て愕然とし、そして落胆したという。
それをわざわざ本にまで書いている。
残念ながらまともな反応だろう。
美瑛のパノラマを見て、大自然の造形美に感動する夢見る30代女性。
田舎育ちの私などは、
美瑛や富良野の開拓され放題の地をみて絶句してしまったものだ。
「人間てここまでやっても許されるのか・・」
と思った。
おそらくそこにあっただろう原生林は、
すべてなだらかで美しいたかがラヴェンダー畑に。
あそこにあっただろう広い広い原野は、
すべて伐採されて丸裸のマイルドセブンの丘に。
秋田の自然を生かして観光開発・・などと言うが、
本当は本当は本当は筋違うだろ。
自然は渾身で守るものである。
「都心の団塊の世代の皆さん、退職したら自然豊かな秋田へ農業にどうぞ! そこで余生を終えましょう!」
はぁ? だから樺太行けっつーんだよ! こっち来んなヂヂイ!
このわけのわからない田舎崇拝をなんとかストップしたい。
そうでないと本物がまた犠牲になってしまう。
はい。
言ってることが支離滅裂で矛盾だらけで
しかも言いたいこととは逆のことを言ってしまっているのも自覚しています。
別に悪気も何もありません。
特に言いたいこともありません。
禁酒の禁断症状に違いない・・。
ストレス溜まってます・・。
王様は裸だ!しかも耳はロバだ!ロバ!!
あーーーすっきりした!!
フゥーーー。
独り言終了。
さっ仕事。
※禁酒解禁まであと・・・2日。
→「禁酒期間も半ばを越えて」
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