津軽藩の参勤交代は、奥州街道ではなく常に秋田の羽州街道を通った。
南部経由だと藩主が殺されるおそれがあるからだ。
一度、おめおめと盛岡を通ったことがあるようだが、
そのときにはキッチリ南部藩士によって命を狙われ、
命からがら津軽領内に戻ったらしい。
怨念、凄まじく深い両藩。
以来、秋田との藩境矢立峠には藩主の命を狙うHitmanが常に潜んでいたという。
そういう物々しい理由で、
津軽の大名行列は弘前城から現在の7号線を上り、
秋田市からはほぼ現在の13号線を上っていく。
仙北の神宮寺で雄物川を渡るのだが、
そこで渡船場の渡し人足たちが、
殿・津軽信寧に、法外な渡し賃を請求したという。
しかし、これは真実ではないだろう。
いかに他藩の渡船場とはいえ、
渡し船の漕ぎ手という士農工商の最底辺以下にいる者どもが、
最高位にいる殿様の御一行から正面きって賃料を貪りとるなどできるだろうか?
折しも身分制度の最も厳格堅牢な江戸中期、そんなことがあってたまるか。
そして江戸に着いてから、
津軽藩主は江戸城中で秋田藩主・佐竹義真にクレームをつける。
おそらく、こんなやりとりだったろう。
津軽の殿
「いやーあんたんとこの神宮寺でいっつも待たされるよ。暑くて暑くてまいねまいね。俺、殿様なんだから優先しろっつーの。だいたい日本語知ってんの?なにあの連中?何言っても、わりし、もうしわげねし、さいならし、ばっかり。もうちょっと領民のレベルあげたら? 同じ奥羽の大名として恥ずかしくなるよこのチョンマゲ!」
佐竹の殿
「ウ・・、申し訳ない・・。(恥かかせやがって神宮寺の三助どもめ!)」
この当時、津軽信寧12歳、佐竹義真19歳である。
この二人のヒマなガキどものどうでもいいような会話で、可哀想な神宮寺の渡船人足11名の運命が決まった。
「此者共先達津軽越中守殿当所御川越之節
賃銭ヲ貪取リ候ニ付キ獄門ニ行フモノナリ」
処刑は津軽藩主がここを通る前日にわざわざ行われた。
草いきれがムッとする夏の暑い日だったという。
その時期の川辺の匂い、川の畔で生まれ育った私にはよくわかる。
「なにゆえ、死なねばならぬのか」
本人はもちろん、親、妻、息子、娘、仲間、縁者、すべての者がそう思ったろう。
それ以来、歴代の津軽藩主がここを通るたびに彼らの怨霊が出現し、
怨念の暴風雨をしっかりお見舞いするという。
以来、津軽の参勤交代は羽州街道を通るにしても命がけのものとなってしまった。
津軽の大名行列は神宮寺渡しを無事に渡河できると、
弘前にその旨を告げるためだけの早馬を走らせるんだそうだ。
非合理に斃れた、我ら川の民の無念に涙す。
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