土佐まわりの最後に、岡豊城に行ってきました。
実際に土佐に住む人に聞いてまわったわけではないのだけれども、
多分、土佐人にしてみれば高知城よりも岡豊城なんだと思います。
この豪快な山と黒潮の海に囲まれた土地は、周辺との懸絶を強いられてきた。
そのせいで、同じ四国にあっても、土佐だけはなんか違うのである。
古代、土佐といえば鬼国といわれ、中央から多くの流罪人が送られた。
それほどこの四国山地は鬼の牢のように屹立し、黒潮は激しかった。
そういう環境であるからして、周囲とは実に多くの甚だしい特異点がある。
例えば、言語、風俗、生態系、価値観・・。
それは「都」に対してはなはなだしく「鄙」ということになるが、
しかし、そのせいで「誇り」も涵養されやすいのである。
事実、土佐人はとても誇りが高い。
その誇りを統一したのが、かの長宗我部元親だ。
土佐の誇りは彼の元に集約され、
それが山を越えて四国全てを制覇するに至った。
その彼が拠点としたのが岡豊城。
見事な戦国初期の山城だと言っていい。
急峻な小山と麓を囲む川。
豊島玄蕃の拠る秋田の豊島館を思い出した。
無論、規模は全然違いますが。
遠く浦戸の海を遠望する長宗我部元親。
ここに多くの長宗我部侍が拠って、日々、四国制覇の野望について謀をめぐらす。
土佐が最もイキイキとしていた時代だ。
秋田では海の安東氏と内陸の小野寺氏が覇権を争っていた頃。
ここにいたであろう正室・奈々。
彼女はわざわざ美濃から来た嫁で斎藤内蔵助利三の妹。
明智光秀の血縁だ。
本丸に咲く梅を見て思い出した。
関ヶ原、大坂の陣の末、長宗我部家は歴史から抹消させられた。
しかし、土佐人が消えたわけではない。
そこにやってきたのが「巧妙が辻」で有名な山内一豊率いる山内家なのだ。
岡豊城を放棄して現在の高知城を造った山内家は土佐人から見れば、
関ヶ原の功績による国替えで知らない土地からやってきた見知らぬ異境人。
誇り高い土佐人は、大いに抗い、各地で武装蜂起した。
それに対する山内家は、住民統治の基本を武力弾圧においた。
もともとこの地に住む土佐人にしてみれば、
高知城に蟠踞するあの山内とかいう人々は進駐軍だったのだ。
秋田人が佐竹家を見る目とはかなり違うのである。
こうした長い長い江戸期の弾圧によって鬱積した土佐人としてのエネルギーは、
幕末、勤王思想を媒体にして一気に爆発した。
坂本龍馬や中岡慎太郎、武市半平太や吉村寅太郎、岩崎弥太郎など、
すべての郷士、土佐人の活躍は、
~勤王党も、天誅組も、薩長連合も、大政奉還も、船中八策も、三菱財閥も~
すべてこの岡豊城が源だったのだ。
とは言い過ぎかもしれないが、
四国歴訪の最後を岡豊城にしたのは我ながら正解だったと思う。
夏草賦 つわものどもが 夢のあと
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