年に何回かお詣りに行く場所がある。
会社の近くにある丘の上の国道沿いに立つ墓所。
ここには12人の仙台藩士が眠っている。
幕末。
秋田藩という当時の秋田政府は何をするにも中途半端だった。
独自のVISIONを持てず、意志決定は緩慢で曖昧。
とても政治に携わる資格があるとは思えない人々が秋田の未来を担当していた。
世襲制の弊害の一つだが秋田においては最も大事なこの時期にその悪弊が発揮された。
慶応4年。
奥羽越列藩同盟脱退を電撃脱退。
紆余曲折した挙げ句、結局のところ一度は加盟した東北同盟を離脱。
東北諸藩を裏切り、新政府側いわゆる薩長率いる官軍側に寝返った。
これが、ある大戦略に基づいて最初から計算されたactionであるとすれば、
秋田もなかなかやるものだと思ってしまうが、もちろん、そうではない。
ある卑劣で陰鬱な事件をキッカケに寝返らざるをえなかったのだ。
7月4日。
仙台藩から正式な12人の使者が秋田藩の同盟離脱を阻止すべく、
正使として秋田に逗留していた。
こともあろうにそれらの使者を全員、寝込みを襲い、めった斬りにし、
文字通り血祭りに上げ、その首を刃物で落とし、
五丁目橋の下(今の立ちそばの下あたり)に
その罪のない仙台人の首を晒したのである。
やったのはある秋田人の一団だが、
しかし秋田政府の意志とは何の関係もないところでおこった。
雷風義塾。
おそらく下手人は彼らと彼らの周辺だろう。
現在の南通りの亀の湯前にその私塾があったことを証する石碑が建っていたが、
要するに彼らは当時流行、秋田発祥の平田神道を信奉する憂国の若者集団だ。
彼らは明らかにさきばしり過ぎていた。
あまりにも青く、そして致命的な勘違いをしていた。
偉い先生を仰ぐあまり尊敬が情熱を盲目にし部分的にしか物事を見ない。
後世の我々からすれば平田篤胤の神道論など非常に独善的で、
これによって政治を行うなどどう考えても亡国の行いだと思ってしまうのだが、
しかし盲目になっている彼らにはそれが見えない。
彼ら以外の人には簡単に見えることなのに。
官軍の走狗。
暗殺敢行の決定打は秋田入りしていた薩摩人大山格之助の一言だともいわれる。 この威を借りて威を張る薩摩の詐欺師にあおられて、
その気になり、後先を考えず、秋田の未来のためにを顧みず、暴走した。
目先しか見えなくなってる馬鹿ほど手玉にとりやすいものはない。
薩長にすれば東北を制するにあたり秋田を踏み台にしたいのだ。
そして仙台人一行は馬鹿の祭壇に供えられるべく虐殺された。
真夏の闇夜。
息を殺して南通りから茶町通り沿いの幸野屋旅館に向かう暗殺者の一団。
風はなまぐさし。
川反に血風漂うあの一夜から秋田はさまよいさまよい今に至る。
秋田はやり直さなければならないのだ。
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