時の勝者が歴史を創っていく。
そういう意味では政治的敗者は必ず汚名を着せられ、よく書かれない。
古くは蘇我氏や物部氏、蝦夷、平将門、吉良上野介、マニアックなところでいうと
小栗忠順というのもありだろうか。
しかし代表的なところでいくと明智光秀と石田三成だろう。
特に石田三成にとっての相手は、
あの徳川幕府だったので惨憺たる汚名を後世に遺している。
しかし、この「石田治部小輔三成」という男。
知れば知るほど今まで思っていた人物像とは少々違うようなのである。
少なくとも陰湿で奸悪な感じはしない。
むしろ、正義を思うこと激しく、破邪を退けること鋭く、
それがために頭の固い堅物というイメージもあるが必ずしもそうではない。
友情・人情に篤く、意外とカラリとした人柄だったのではないか、とも思う。
大谷刑部吉継という勇気と智力に長けた武将が豊臣期にいたが、
この人、癩病(らい病、ハンセン病)だった。
当時、癩病を忌むこと甚だしく(最近までそうだったくらいだから)、
この爽やかな智将もいつも顔を頭巾で覆っていた。
大坂城での出来事。
ある茶会で武将が集まり、各々まわし飲みしているときに、
大谷吉継が碗を取ったところ、
不覚にも癩病特有の顔の吹き出物から膿が滴り、茶碗の中に落ちてしまった。
当然、うろたえる吉継。
しかし三成はその碗を取ると
何事もなかった様に周囲の注目を集める中、飲み干した。
勿論、茶碗には膿が入っているのである。
癩病はつい最近に至るまで感染すると信じられ、
それがために現在でも様々な差別がある。
しかし、三成はためらいもせずに膿を飲んだのである。
大谷刑部は感動し、関ヶ原で奮戦して死んだ。
加藤清正や福島政則などの
今でいう暴走族のリーダーのような連中とは異常に仲が悪いが、
上杉景勝や直江山城、佐竹義宣などとの友誼は非常に篤い。
その三成が京で愛用していた茶室が死後、
親友の佐竹義宣によってひそかに秋田の久保田城に運ばれ、
幕府の目を避けるように搦手の隅にひっそりと移し替えられた。
さらに時が移り、その場所は榮太楼旅館になった。
旅館の中庭にひっそりと佇む三成の茶室。
一度、旅館当主の小国輝也氏のはからいで
その茶室で秘かな酒宴を催したことがある。
そこでは、大谷吉継や島左近、上杉景勝、直江山城などの
猛者どもとの会話や三成という男の正義が壁に染みついているようだった。
三成にすれば関ヶ原は義戦だった。
正義のために戦った側が負けた。
よくあることだ。
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