では、秋田美人とは何であるか。
これほど濃厚に遺伝的特徴として、現在でも確認されてる以上、
コーカソイドの遺伝系統を持つ大規模な人間集団がこの地域に住み、
相当以前からこの狭い地域間で非常に長い時間にわたり混血が行われ、
その血を薄めていってたと考える他はない。
彼らは古代、何かの理由でここまで来た大集団だっただろう。
そのことは意外なことでもなんでもない。
それよりも至近の例になるが、
5世紀に日本にやってきた渡来人・秦氏も現在のシリアのあたりをルーツにしている。
東アジア人ではない。
彼らの発端をコンスタンティノーブルの宗教会議だという人もあるが、
この時代で3万人規模の移民だといわれている。
このことは、司馬遼太郎氏も「兜卒天の巡礼」などで書いているし、
かなりの量の資料・学説がある。
あとで機会があれば、「自分のルーツ編」でも語りたいところだが、
私はそれを奈良の初瀬川、長谷寺や京都の太秦など、
非常にシブイ場所を実際に探訪して生の歴史(生の状況証拠)を体感し、
確信している。
話が少し逸れた。それはいい。
であればそれ以前、
縄文とか石器時代とかいわれるナンセンスなネーミングの時代に、
そのような大規模移民団が日本列島に流れ、
定着するということは決して不思議なことではない。
そもそも、日本人は単一で固有の民族ではないのである。
現在のアメリカのような、
様々な種類の人々が最後に辿り着く古代のmeltingpotだった。
それは地球儀を見れば納得いくことだろう。
当時、ユーラシア各地での、
生物的な縄張り争いに負けた数々のHumanRaceの一団が沿海州を渡り、
リマン海流に乗り南下。
彼らはみな、船でやってきた。
遠く見える鳥海山が目印になっただろう。
実際、日本海上から日本列島を見ると鳥海山がはるか彼方からも見える。
対馬海流のあおりが強くなる仁賀保沖あるいは象潟沖あたりで船はスローダウン。
当時、船には動力がない。
船の行く先は多分に海流まかせだっただろう。
自然、押し戻された船は秋田湾のあたりで漂うことになる。
そこには、豊かなショアである八郎湖があり、
雄物川があり、定着するにはうってつけの楽園があった。
そのときの秋田の空はやはり蒼かったに違いない。
→「 秋田蒼天記 」
次回へ続く→「秋田美人考 ~東北西海岸文明」
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