あまり知られていないが、
鎌倉革命といったらもう一人の大物を忘れてはいけない。
京都の公卿出身、漢籍にもよく通じていた教養人。
それが「大江広元」だ。
どちらかというと明確な国づくりビジョンを持たないLeaderである頼朝の陰で、
北条氏やその他の利害関係を実にバランス良く調整しながら、
戦時中は名参謀として頼朝に様々な策を与え、
平氏討滅後は無二のブレーンとしてその後の体制、政策を立案してのけた。
初代政所別当。
今でいう内閣官房長官みたいなものだ。
鎌倉幕府の絵はほとんどこの人が描いたのである。
役者としては明治維新の際の大久保利通に通じるものがあるかもしれない。
「幕府」
というウルトラCを考案したのも彼だといわれる。
壇ノ浦後の日本に於いて、
最強の軍事力を持つ者といったら鎌倉革命軍以外にいない。
そういう状況下であれば、
通常はあらたに王朝を開始するものだ。
前王朝の人々である天皇家と公卿を追放するか滅殺し、
辺境の勢力である奥州藤原氏に難癖をつけて討滅、
その上で京都でも尾張でも鎌倉でも、
好きなところに王府をひらけばそれで済む話なのである。
かつて平将門がそうしようとしたように、
中国はじめ、世界の歴史はそういうことを繰り返している。
しかし、頼朝にあってはそういうことができる状況ではなかった。
彼はいつ自分が北条氏などの「味方」に殺されるか、
ビクビクしながら残りの生涯を送ったはずだ。
教科書の印象ほど、絶対唯一の実力だったわけではないのである。
そういう苦肉の状況下にあっての大江magic!
彼が見事に「幕府」を取ってつけたのである。
「幕府」はもともと中国歴代王朝の制度で、
匈奴やチベットなどの辺境異民族の討伐に向かった大遠征軍が、
皇帝の許可を得て、砂漠や山間部の前線で開いた臨時政権だ。
司令部、大本営でもある。
いずれにしても、もともと臨時的な制度なのだが、
大江広元がそれを参考にし文字通り取って付けた日本の「幕府」はその後、
江戸幕府が終わりを迎えるまで約700年続くのである。
これが彼の生涯見せ続けた「magic」の中でも最大のものだっただろう。
頼朝墓の裏山にある彼の墓
至る所に洞穴が
一番上の洞穴が彼の場所
暗闇が何かを語る
彼の子孫である、毛利家。
彼がこの墓に入ってから700年後、長州毛利藩の若者たちが戦塵の中から出現し、彼が日本に導入した「幕府」を倒す。
それきり日本から「幕府」という制度が消え、子孫達が今度ははるか西洋から導入した「立憲君主制」に変わる。
帰路になんとなく思う
magicianはそこまで仕込みしていたのかもしれない、と。
そんなわけないか・・。
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