鎌倉に行ったのならやはりこの人物について触れてみないと。
鎌倉幕府成立というのは、単に源平の政権交代ということではい。
源氏と平氏の対立構造なのではなく、
本質的には中央と地方、京と東国、貴族と農民の対立。
支配者階級と被支配者階級の逆転。
階級闘争、すなわち革命なのだ。
「平家物語」はドラマなので源氏と平氏の対立を軸に、
実にwettyなリズムにのって展開されていくが、
基本的にはお互いの一族の興亡を賭けて戦ったのではない。
そもそも、頼朝の後ろ盾の北条氏は平氏なのだ。
実際のところは、血縁的に平氏か源氏かなどとはこの際大した問題ではなく、
革命勢力に味方する者は源氏の白旗、保守勢力に味方する者は平氏の赤旗に別れて戦ったということだろう。
当時の経済的事情に端を発する体制への不満、反発。
そういう必然的な革命現象なのである。
ロシア革命と同じようなことが、日本おいては12世紀におこったということなのだ。
特に源九郎義経はこの構図を理解しなければいけなかった。
義経は世界史上においても、まれにみる軍事の天才として語られているが残念ながらその才は軍事だけにとどまる。
彼を保護した藤原秀衡がもしも世界的な逸材で、
義経を軍事長官にして「日本こうあるべき」というビジョンを持ち、
奥州の軍馬を率いてタイミング良く白河越えしていたなら、
今頃、日本の首都は石巻あたりになっていたかもしれない。
太平洋ベルトは縦に走っていただろう。
同じようにして世界的な軍事の天才といわれる信長は、政治・外交などにも長けていた。むしろそっちの能力の方が高かった。
その違いだけで、両者が後世に残した功績、影響というのは格段に違うのだ。
義経では、東国の老婆の涙を得ることができでも、一家一国を食わせていくことはできないのだ。
おっと。
弟のことはいいとして、征夷大将軍・源朝臣頼朝。
幼い頃、マンガ日本の歴史などを読んでいて、
「源頼朝はなんでそこまでしておいて、
天皇家を食って新王朝を興さなかったのか」
とすごく疑問に思っていたものだ。
中国だったら間違いなく王朝が変わっている。
しかしよーく考えてみると、彼のおかれている立場からしてそれは不可能だったし、
おそらくそれは考えつきもしなかっただろう。
そう考えると、そもそも信長のような、
ビジョンを持った人物ではなかったように思える。
しかし、空気を読むことに卓越した人物だ、ということは言えるかもしれない。
様々な利害を持った人々が刀槍を持ち、二枚舌と営業スマイルが集いひしめき合う中、ついに最後までhandlingしきってしまった。
これは本当に神業的なことだと思う。
そのことこそが頼朝の凄みであり、歴史的なのだ。
結果、彼は鎌倉革命というその後の日本に大きな大きな影響を与える事業を成し遂げた「象徴」として人々に記憶されることになった。
そういう意味では、「源氏の長者」としての使命を見事に果たしきったということになるだろう。
さて、鎌倉に行ったついでに頼朝の墓に参る。
鎌倉はいろんな名所がコンパクトにまとまっていてとても歩きやすい街だ。
街のど真ん中にこういう場所が普通にある。
さすがかつての都。
まずは建長寺
国宝の鐘楼
運慶作・閻魔大王in円応寺
鎌倉に多くみられる古風で無骨な野道
八幡宮の東隅、白旗神社に墓所はある
「白」は源氏のコーポレートカラーなのだ
源頼朝、ここに眠る
生存中、彼の命令をうけて、小笠原(大井、仁賀保、内越、赤尾津など)、小野寺、浅利、成田、南部、福士、奈良、畠山、熊谷、茂木などの関東甲信越の人々が当時の秋田に地頭として入ってきた。
弊社にもこれらの姓をもつ人が4人もいる。
歴史というのは縦にも横にもつながっている。
すなはち、悠久なのだ
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