日本人の東北に対する侮蔑意識はここから始まったのではないか。
戊辰戦争の際に勝者となった薩長中心の官軍・新政府勢力が、
朝敵となり敗者となった東北諸藩を嘲弄するためのスローガンだったんだろうが、
あまりにもひどい言いようだ。
(南部の猛将・楢山佐渡)
「白河以北一山百文」とは、
東北なんぞは山一つでも百文しか価値がない、という意味だ。
現に明治政府も今の政府も、
そういう我々への嘲弄、侮蔑を根底に持った国づくりをしてきた。
平民宰相といわれた日本で最初の政党内閣の首相、
原敬は南部藩の士で盛岡の人だ。
(平民宰相・原敬)
東北戊辰戦争の際、生保内口から始まり、鹿角口、大館、能代など、
秋田藩深くまで斬り込んできた南部軍を率いた家老楢山佐渡が
薩長に屈服して盛岡の報恩寺で切腹したとき、
人目もはばからず寺の塀沿いを
「満眼に悲涙をたたえて歩いた」というエピソードが残っている。
このとき14歳、原敬は反骨の東北人なのである。
戊辰後の人生は藩閥への挑戦に貫かれた人生だといっていい。
彼の悲願は東北に対して「白河以北一山百文」などという
薩長主体の藩閥政治を打倒し、政党による政治体制をつくること。
その彼の雅号が「一山(ichizan)」である。
無論、「白河以北一山百文」という侮辱に対する反抗である。
その気概と実行力に感服する。尊敬する。
今、仮に対岸のどこかの国と戦争になった場合、
初期防衛がうまくいかず、
北日本に敵国軍の上陸、
そして一時駐留・占領を許してしまったとする。
そのとき、日本政府は東北を切り離してしまわないか?
見放してしまうんではないか?
白河に防衛ラインを張るのではないのか?
そこんとこどうなのか。
考えると背筋が寒い。
150年前も今も、我々は日本人だ。
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