私が野球少年だったということは、なぜか意外の部類に入る話らしい。
しかし実際の私は野球少年もいいとこで、
それもヒーロー街道まっしぐらのスーパー野球少年だった。
当時は体格にも恵まれていこともあり、
小学校3年生の頃から上級生を差し置いてレギュラーとして試合に出場し、
5年生の頃にはマウンドに立ち、6年生になると数々の強い相手を倒した。
私がマウンドで投球練習を始めると、
敵のスタンドから「オーーーーッ!!」というどよめきが聞こえるようになった。
このままいくと全県優勝してしまうと思った最後の大会で、
なぜか岩見三内あたりにコールドで負けた。
中学校に入っても一年からマウンドに立ち、
2年生の頃には背中に「1」がついた。
急速がみるみるupし、変化球は思うようにslideし、
「このままいくとプロに入らなければいけなくなってしまう・・」
と本気で悩み抜き、
「事業家としての夢」と「プロ入り」の狭間で、
思春期の私の心はかなり揺れ動いた(笑うところですよ!)。
しかし転機はやはり訪れた。
右ヒジ遊離軟骨。
今でもあの「ピリッ」ときた瞬間を覚えている。
そこですぐに治療に入れば良かったのだが、
練習用マウンドの側には、
私を見に来ている女性ギャラリーたちがたくさんいたし(ほんとですよ!)、
その方々の期待に応えるためにも私は投げ続けなければならなかった。
元来、悲劇のヒーロー好きの私は、
「痛くても投げ続ける悲運のエース」を演じているこの状況がたまらなく好きで、
試合中のマウンドでは「背番号のないエース」を口ずさみながら、
一生懸命ヘロヘロの球を投げ続けた。
それが拍車をかけてさらに事態は悪化した。
鼻唄を歌う余裕はどこかに消え、腕が痛くて箸も持てなくなるようになった。
メシは左手でスプーンを持って食べ、
ごはんはおにぎりに、おかずはハンバーグなどに。
そして、私はグラウンドから遠ざかった。
毎日、毎日、陸上部のように走る日々。
9年間で最も楽しいだろう最後の期間に、私はグラウンドではなく、
来る日も来る日も路上で一人で走っていた。
その間、いくつもの整形外科や整骨院に通っても状態はまったく好転せず、
親父は藁をもつかむ思いで県内中の整形外科や整体師を駆け回り、
ついに最終道場にたどり着いた。
そこは怪しげなハゲオヤジが一人でやってる自宅兼治療所のようなところで、
薬といえばタイガーバームのみ、報酬はたいへん高い。
あまりにも信用ならない胡散臭い雰囲気に満ちているので、
最初のうちはそこに通うのが嫌だった。
いつも夕方に学校から帰ってくる娘さんがあんなにキレイな人でなければ、
通い続けることは絶対になかったはずだ。
しかし、そこは実のところ超一流だった。
私はそのハゲオヤジから、野球に対する考え方、ケガに対する考え方、
うまく投げれるフォームなどなど必要なことを次々と教わった。
そして何日か通うと、待合室の「うしろの百太郎」を一緒に読んでる、
私と同様の境涯の人たちの顔ぶれがものすごいことに気付いた。
当時、秋田で野球をやっていれば誰でもわかるような、
あこがれの甲子園スーパースターの顔ぶれがそこにあったのだ。
最初はどうせみんなあの娘を狙いにきているんだろうと思っていたが、
どうも様子が違い、
「娘も狙いつつ、ケガも治したい」
という意欲に満ち溢れていた。
さすが一流の選手たちは凡人とは全然違うと思ったものだ。
それに比べて自分はケガに対して本気で向き合っていたのかというと疑わしい。
どちらかというと「7:3で娘」だったと思う。
しかし、どちらも120%で臨むのが一流というものだったのだ。
私は一流と自分とのギャップに正直に驚いたし、素直に自覚もした。
「自分が一流だと思っていたのは実は冗談だったのだ」
と。
私の蒙は啓かれた。
そして整体の老師の指導のもと、みるみるうちにヒジは回復した。
私のいない1ヶ月半、代わりのピッチャーとチームがよくやってくれ、
最後の大会は全県大会に出場できた。
実に15年ぶりの全県出場で、前回出場したときは我々が生まれた年だった。
さらにそのときは全県制覇していたので地域住民の期待は最高潮に高まった。
そして私はマウンドにあがれるまでには回復した。
最大の武器であるストレートの球速も戻り、
理想のフォームで思いっきり投げれるまでに復活した。
しかし卑怯なことに誰にも言わなかったが、
実はまともに投げれるのは3回がいいとこだったのである。
ちょっと投げるともう指の感覚がなくなり、どうしようもなくなった。
だから力の入らなくてもいいスローカーブを多投した。
最後の大会。
八橋で優勝候補の秋田北中との試合。
1-0ビハインドでの終盤、五回裏一死一、三塁のピンチで登場。
あのときマウンドにあがったときの大きな大きな歓声を今でも忘れていない。
結果、ストレートは走っていたが、例のスローカーブを打たれた。
打たれた安打は1つだけだったが2点が入った。
試合が終了してマウンドから降りるときにはもう指の感覚がなくなっていた。
真っ向勝負のスローカーブだったと思う。
号泣の涙とともに、野球はもう吹っ切れた。
I was just a 野球少年.
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